高級賃貸物件が「高級」である所以は、何も物件の所在地(アドレス)ばかりではない。むしろ物件の設備、すなわちハードウェアについて考えることこそが本質的であるといえよう。その中で、「賃貸物件で欲しい設備ランキング」の常連にして不動の王者といえば、やはりオートロック機能が挙げられる。
もはや説明不要かとは思うが、これは不審な侵入者をエントランスの時点で物理的にシャットアウトするシステムだ。居住者は専用のキーやカード、あるいは生体認証で解錠し、訪問者はインターホンを通じて許可を得なければ、その聖域に足を踏み入れることはできない。かつての日本の長屋文化が持っていた「鍵をかけない美徳」は消え失せ、現代の住居はコンクリートの城塞と化したのだ。
現代日本において「安全」とは、もはや水や空気のようにタダで手に入るものではなく、高い対価を支払って購入する「オプションサービス」である。
特に、何かと物騒なこのご時世だ。しつこい新聞勧誘、宗教の勧誘、あるいは深夜に突然訪れる「元カノ」という名の災害。オートロックという障壁がなければ、男の安息の地は、ドア一枚隔てただけの戦場と化してしまうかもしれない。寝起き姿でドアを開けた瞬間、修羅場という名の現実が土足で踏み込んでくる。
……といった事態を避けるためにも。
我々は物理的な壁だけでなく、精神的な壁も構築する必要がある。
90年代後半、社会現象を巻き起こしたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』。主人公・碇シンジは、他者との接触を恐れ、常にウォークマンで耳を塞いでいた。物語の鍵を握る概念「A.T.フィールド」は、作中で「絶対恐怖領域(Absolute Terror Field)」と訳されるが、総監督の庵野秀明氏はこれを「心の壁」と定義している。
渚カヲルが語ったように、A.T.フィールドは誰もが持っている心の壁であり、これがあるからこそ、人は他人と自分を区別し、個としての形(自我)を保っていられる。もしこの壁が消失すれば、人は他者と溶け合い、LCLというオレンジ色の液体になってしまうだろう。
つまり、オートロックとは現代社会における物理的なA.T.フィールドそのものだ。誰を拒絶し、誰を招き入れるか。その選択権を握ることこそが、大都会で自我を保ち続けるための唯一の手段なのである。
ただし、勘違いしてはならない。「オートロックを開けてくれた=心のA.T.フィールドも解除された」と安易に考えるのは、男の早とちりというものだ。エントランスは突破できても、玄関のドア、そして心のドアという三重のセキュリティが男を待ち受けている。
オートロックのある生活、それは男の「A.T.フィールド(絶対不可侵領域)」である。