「楽器可」。その三文字は、単なる「音を出しても良い」という許可証ではない。それは、現代社会という巨大な消音装置に対する、ささやかな抵抗権の確立なのだ。
日々、コンクリートジャングルで戦う男が、ビジネス用の仮面を脱ぎ捨てて、本能に近い部分を解放できるかどうか。その是非を左右する、生命維持装置のひとつといえよう。鍵盤でもギターでも、あるいはサックスでもいい。指先から、唇から、あるいは打面から、言葉にならない抑圧された感情を外界へと叩きつけることができる場所。それが「楽器可」という物件の本当の価値である。防音性能(dB)や演奏可能時間のルールはもちろん重要だが、もっと本質的なのは「ここでなら、自分のノイズを世界に向けて放ってもいい」と許されている、その精神的な安全地帯(サンクチュアリ)の確保にあるのだ。
しかし、話はそう単純でもない。現代の都市には、「自称アーティスト」が飽和している。
昼はスプレッドシートとにらめっこし、上司の顔色を伺う善良な市民。だが夜になれば、狭い防音室に籠もり、SNSのプロフィールに「ギタリスト」「トラックメイカー」と肩書きを増やしていく男たち。彼らは仕事で擦り減った魂を、深夜のビートと歪んだギターサウンドで強制再起動させようとする。だが、そこで生み出されるのは、Spotifyの海という虚空に溺れ、二度と浮上しないトラックの断片ばかりだ。
高価なヴィンテージ・ギターや最新のDAWソフトを買い揃え、完璧な城を築いたにもかかわらず、そこから生まれるのは未完のループと自己満足の残響のみ。隣の部屋からも、上の階からも、どこかで似たような「夢の残骸」が鳴っている。都市全体が、デビューすることのないミュージシャンたちの、永遠に終わらないサウンドチェック会場になりかねない。高い家賃を払って手に入れたのは、才能を開花させる場所ではなく、自分の凡庸さを反響させるための密室だった……というのは、いささか考えすぎだろうか。
ここで、少し時計の針を戻そう。
2009年に放送され、社会現象を巻き起こした京都アニメーションの『けいおん!』を想起せずにはいられない。彼女たちはいつも同じ音楽室に集まり、放課後という限られた、しかし永遠に続くかのような時間の中で音を鳴らしていた。あの「部室」という空間こそが、現代の男たちが楽器可物件に求めている原風景なのかもしれない。外の世界ではテストや進路、あるいは出世競争や人間関係に追われながらも、ドアを一枚閉めた向こう側では、「放課後ティータイム」のような絶対的な聖域が約束されている。アンプを通したギターの轟音は、社会的な責任も、将来への不安も、すべてを一時的に上書きしてくれる魔法の杖だ。
あるいは、漫画『BECK』の少年たちがそうだったように、薄暗いスタジオからスタジオへと転がりながら腕を磨き、世界を目指すというヒリヒリした時代は終わりつつあるのかもしれない。今の男たちは、スタジオ代を家賃に内包した「楽器可マンション」という名のホームグラウンドで、孤独に腕を磨く。そこで鳴らされるフレーズが、いつか世界を変えるロックンロールになるのか、それとも単なる近所迷惑寸前の騒音で終わるのかは、神のみぞ知るだ。ただひとつ確かなのは、そこで鳴らされる音が、その男の人生観と美学を、いやでも浮き彫りにしてしまうという事実だけである。
楽器可物件で、誰に聴かれるとも知れない音を鳴らし続けること……まさに男の生き様といえよう。