「食」とは、単なる生命維持活動ではない。それは文化であり、エンターテインメントだ。高級賃貸物件において、そのステージとなるのが「カウンターキッチン」であるといえよう。
従来の日本の台所は、北側の暗い場所に追いやられがちだった。あたかも料理という行為を隠すべき裏方作業であるかのように。しかし、カウンターキッチンは違う。リビングダイニングと対面し、空間を一体化させることで、料理をする人間を主役へと押し上げる。光あふれるリビングを見渡しながら、グラスを傾け、フライパンを振る。そこには、閉鎖的な「台所」ではなく、開放的な「キッチンスタジオ」が存在するのだ。
もっとも、独身の男がこのステージに立ったとき、観客席であるリビングに誰もいないという事態は往々にして起こりうる。広々としたLDKに向かって一人でパスタを茹で上げ、一人でワインを開ける。それは孤独な独り芝居のようでもあり、あるいは自分自身へのナルシシズムの極みかもしれない。
だが、現代の東京砂漠において誰かのために手料理を振る舞うスキルは、フェラーリのキーよりも強力な武器になる......かどうかはともかく。
重要なのは、カウンターという「結界」の内側に立つことの意味だ。
かつて、木村拓哉が型破りな検事を演じ、驚異的な視聴率を叩き出したフジテレビのドラマ『HERO』を思い出してほしい。彼らが夜な夜な集うバー「St.George's Tavern」。そこのカウンター内には、田中要次演じる無口なマスターが鎮座していた。
通販マニアの久利生公平が、どんなに突拍子もない注文をしても――たとえそれが納豆だろうが、お好み焼きだろうが――マスターは低い声でこう返すのだ。
「あるよ」
この一言の破壊力。彼は多くを語らない。しかし、客が求めるものを瞬時に察知し、カウンター越しに差し出す。その姿は、まさに男が憧れる「頼れる男」の究極形であった。
カウンターキッチンを持つということ。それは、いつ何時、意中の女性が訪れ、どんな無茶なリクエストを投げかけてきても、涼しい顔で応える準備ができているという宣言に他ならない。深夜の「お腹すいた」に即座にリゾットを出す。朝の「コーヒー飲みたい」に完璧なエスプレッソを淹れる。
そこに必要なのは、愛の言葉ではない。圧倒的な準備と実行力だ。
2001年のドラマ放送から20年以上が経ち、キムタクは年齢を重ねてもなおスーパースターであり続けている。SMAPは解散し、平成は令和になったが、男がカウンターの内側で守るべき美学は変わらない。
カウンターキッチンのある生活、それは男の「あるよ(All requests accepted)」である。